一言:無功徳
(むくどく)
意味:見返りを求めない良い事をする
(禅語 『景徳伝灯録』より)
六世紀前半、「仏心天子」と呼ばれるほど仏道に深く帰依した梁の武帝がいました。
ある時、武帝はインドから渡ってきた達磨大師を招き、こう尋ねました。
「朕、即位以来、寺を造り、経を写し、
僧を渡すこと挙げて記すべからず、何の功徳か有る」
(私は多くの寺を建て、僧を養成した。どんな功徳が得られますかね?)
武帝は仏法の興隆発展に尽くしたという強い自負があったのです。
当然、達磨大師からのお誉めの言葉はもちろん、もっと大きな幸せを期待していたのでしょう。
しかし、達磨大師はこう答えたそうです。
「ならびに無功徳」
(あなたに功徳は全くありません)
達磨大師は、武帝の功績を否定したわけではありませんが、いくら善行を行っても、見返りを求めた打算的な行為は、真の善行ではないと説いたのです。
「功徳」とは、良い行為に対する報い、という意味を持っています。
禅には、功徳を得るために良い事をしても、功徳はもたらされないという考え方があります。
「これだけしてあげたのに…何でだよ!」
誰もが一度は思った事があるのではないでしょうか?
笑顔で挨拶したら、笑顔で返して欲しいのは人間の性で、恥ずべきことではありません。
何でもお金に換算してしまう現代社会では「見返りを求めず良い事をしなよ」と言われても、リアリティに欠けた発想で、何だか嘘臭く感じてしまう人も多いでしょう。
しかし、相手が善行を行っていても「見返りを求める姿勢」を感じた途端、何だか浅ましい印象を受けてしまうのも事実です。
それでも、人助けをしたら、御礼の一言くらいはほしいもの、誰しもが無意識に見返りを期待してしまいがちです。
私達はお寺や神社に行くと、それはそれは多くのお願い事をします。
しかし、参拝や修行も自分の利益の為に行うものではなく、打算や下心を捨て、無心の状態で行う事が大切とされています。
このような意味を含んだ言葉が達磨大師の「無功徳」なのです。
禅においては、日々の行いも同様で、自我を満足させるための行為を抑制します。
「人に優しく、相手の立場に立って考え、思いやりをもって接する」
何の見返りも期待せず、当たり前のこととして良い行いをできる心が大切とされているのです。
もちろん、自分自身も大切にした上での話です。
確かに、そもそも、自分を大切にするのであれば、かの武帝のように「私はこんなによい行いをしました」と周りにアピールは…しない方が良いですよね。…と、このように計算して善行について考えてしまう事も既に打算的と言えるでしょう。
難しいですね。
確かな事は、見返りを求めない、と決めると自然に行動範囲が広がるという事です。
自分が良いと信じる事を無心に行っていれば、結果によって心が乱れる事がありません。
良い事をしたけど、お礼の言葉が何も返ってこなかった。
でも、心が少しだけ安らいだ。
それだけで十分ではないでしょうか。






