一言:瓦を磨いて鏡となす
(かわらをみがいてかがみとなす)
意味:利益ばかり計算して動くのを止めてみる
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「仏になるため座禅をする」と考えてしまいがちな若い僧を戒めた言葉とされています。 『伝燈録』に記された 唐代の僧、南嶽懐譲(なんがくえじょう)と弟子の修行僧、馬祖道一(ばそどういつ)の問答が有名です。 |
昔々、熱心に坐禅する馬祖道一を見て、南嶽和尚が問いました。
南嶽和尚「ふむ、坐禅に熱心なようじゃの」
馬祖道一「はい」
南嶽和尚「何の為に坐禅してるんじゃ?」
馬祖道一「仏になる為です」
南嶽は、おもむろに落ちていた瓦のかけらを拾います。
馬祖道一「…?」
南嶽和尚は、何を思ったのか、いきなり砥石でせっせと瓦を磨き始めます。
ひたすら瓦を磨いている南嶽和尚。
馬祖道一が哀れみを感じ、近所のお医者様に連れて行こうか迷ったのかは定かではありません。
馬祖道一「え~っと…南嶽和尚、何してるんですか?」
南嶽和尚「鏡をつくるんじゃ」
馬祖道一「ハァ?和尚、瓦をいくら磨いても鏡になるわけないじゃありませんか?」
南嶽和尚「では、おまえさんは坐禅をして仏になれるのかね?」
馬祖道一「………」
馬祖道一が「この屁理屈じじい…」と思ったかどうかは置いておいて、南嶽和尚は「悟りを開く為」、「仏になる為」など、「~の為」に坐禅をすることを戒めたとされています。
南嶽和尚が瓦を磨いて伝えたかった事は、果たして…
・悟りの為の坐禅は、瓦で鏡をつくろうとするのと同じくらい無意味である
でしょうか?それとも…
・目的や結果を求めずに無心で磨く行為にこそ尊さがある
でしょうか?
色々な受け取り方がありますが、禅の修業において、結果ばかりを求めた行動からは得ることが少ないという事ではないでしょうか。
私達人間はどうしても、利害関係ばかりを考えて行動しがちです。
「これをやってあげれば私は後々有利だ」
「この人と良い関係でいれば自分にとって後々良いことがありそうだ」
「あの人とこの人を会わせるのは自分に不利になるから止めておこう」
ひとたび利害損得で動き始めた人は「自分は常に賢い選択をしている、しなければ…」と考えてしまいがちです。
中には、自分の中で勝手に他人と勝負を始めて不平不満を感じたり、イライラしてしまう人もいます。
この姿勢では、思い通りの結果が得られなければ、とんでもない徒労感に襲われてしまいます。
逆に、素の自分から湧き上がってくる気持ちや、使命感から行動している人は、結果の良し悪しに関係なく、達成感や充足感を得る事ができます。
お金、地位、名誉、人…
これら人間が持つ無限の欲求を目的としてモチベーションを上げることは大切です。
南嶽和尚の言葉は、これらの欲求に支配されて自分を見失なわないように戒める意味もあるのではないでしょうか。






