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【金閣寺】 太古より輝き続ける北山文化の象徴

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国内外に広く知られる金閣寺は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の名刹で、舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と呼びます。
金閣寺という寺名は足利義満の法名にちなんでいますが、正式には鹿苑寺(ろくおんじ)といい、山号は北山(ほくざん)です。
鏡湖池に臨む三層の楼閣の金閣は、初層は寝殿造りの「法水院」、二層目は武家造りの「潮音洞」、三層目は唐風の「究竟頂」となっており、三つの異なる様式を見事なまでに調和させ、格式高い建物となっています。

春は桜が咲き乱れ、秋は燃えるようなもみじの紅葉、冬はため息の出るほど美しい雪化粧と、四季折々の美しい表情を見せるのも特徴で、1994年(平成6年)には古都京都の文化財として世界遺産に登録されています。
また、衣笠山を借景とした池泉回遊式庭園も室町時代を代表する名園としても知られており、特別史跡・特別名勝に指定されています。
開門と同時に飛び込んでくる金色と季節色のコントラストは「美しい」の一言、京都に行ったら欠かせない観光名所の一つです。

◆創建の由来◆

応永4年(1397)、将軍職を子の義持(よしもち)に譲った足利三代将軍義満は、西園寺公経(さいおんじきんつね)の別荘跡に「北山殿(北山第)」と呼ぶ山荘を造営し、これが金閣寺の始まりとされています。

応永15年(1408)に義満が没するまで、この地は北山文化の中心だったと考えられており、当時は多くの権力者が義満への貢物を持ちよっては自分に有利な計らいを受けようとしていたと言われています。

  金閣寺
義満の死後、北山殿はしばし夫人の住居として使用されていたそうですが、やがて夫人も没すると、遺言に従った義持は「北山殿」を禅寺に改め、義満の法号にちなんで「鹿苑寺」と号するようになったと伝えられています。
後の応仁の乱などで大半の建物は焼失し、北山文化唯一の遺構であった金閣も昭和25年(1950)、一人の青年僧の放火により観音菩薩像など多くの文化財が焼失してしまいます。この件以降、国宝指定はされていません。
現在の建物は昭和30年(1955)に再建されたもので、昭和62年にはそれまで使われていた金箔の約五倍の金箔を使って全面が張り替えられ、さらに平成15年には屋根の葺き替えも行われ、創建された当初を意識した豪華絢爛な姿を蘇らせています。

◆足利義満(あしかが よしみつ)◆1358~1408年

京都の礎を築いた人物として知られる足利義満は、当時の最高権力者、室町幕府の第三代将軍(在位1368~1394年)であり、金閣を建立した他、勘合貿易を開始した将軍としても有名です。

義満は、貞冶6年(1367)父である第二代将軍・足利義詮(よしあきら)の死を経て翌年、管領細川頼之に補佐されながらも若干11歳で征夷代将軍となります。
やがて内大臣になった義満は、摂関家(せっかんけ※1)に習い、武家としてはじめて准三宮(じゅさんぐう※2)を与えられ、公武を統一していきます。

  足利義満
その後、将軍家の地位を高める目的で大守護(※3)を弾圧し続け、明徳2年(1391)山名氏清(やまな うじきよ※4)を滅ぼし、翌年南北朝の合一を達成します。
義満は、明徳3年(1392)四季の花や諸家から召し上げた名木で飾られた室町第(花の御所)の東隣に一大禅苑を造営します。これが相国寺(しょうこくじ)で、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)や義堂周信らの禅傑を重用し、禅宗寺院の統制の為、五山制度(五山・十刹・諸山)を整備していたことから、義満が熱心な仏道の求道者でもあったことが伺い知れます。
応永元年(1394)には将軍職を義持(よしもち)に譲り、太政大臣に任じられますが、翌年には出家して道義と号しました。
義満は時代を先読む感覚に優れていたとされ、隠居後も依然として政治には大きな影響力を持っていたと考えられています。
応永4年(1397)には、洛北の北山に三層の金箔の舎利殿(金閣)をはじめ多数の殿舎からなる北山第を造営し、ここを政庁に兼ねて公武貴族の社交の場とし、これが後の金閣寺(鹿苑寺)となります。
義満は天皇家との一体化を狙って、内外の様々な儀式の一つ一つを法皇のように格調高く、豪華に執り行ったとされ、応永8年(1401)には明に国書を送って国交を開き、日本国王と認められるに至ります。
その後も明との貿易に努めましたが、応永15年(1408)に急病で死去、享年51と伝えられています。

義満は芸術的にも優れていたとされ、和歌や連歌、書にも秀でており、猿楽を好んで世阿弥を愛し、中国渡来の文物を愛玩していたと伝えられています。

さて、私達は現在でも義満をアニメ「一休さん」で見ることができます。
一休さんに対して「屏風の虎退治」のとんち話をしているお殿様を誰もが一度は目にした事があるのではないでしょうか?

  足利義満(一休さんより)
※1:摂政、関白に就く資格を持つ家系。
※2:皇族、大臣や功労ある公卿などを優遇するために設けた称号
※3:室町幕府に抵抗する恐れのある有力な守護大名
※4:南北朝時代の守護大名。

◆金閣(舎利殿)◆

金閣は、舎利殿と呼ばれ、お釈迦様の骨が祀られているとされています。
三層の桜閣で、初層は藤原時代の寝殿造風で池に浮かべた船が着けるようになっており、第二層は鎌倉期の武家造風で岩屋観音と四天王が安置され、第三層は禅宗の仏殿風で仏舎利を安置しています。
さらに屋根の中央には金が張られた鳳凰が輝いており、唐様式仏間と各時代の様式を独創的に折衷させた造りは、北山文化の華やかさを象徴しています。

教科書に載っている写真もこの舎利殿で、ここを見なければ金閣寺に来たと語れないほど重要な場所ですので必ず見ておきたいところです。

◆鏡湖池(きょうこち)◆

金閣の姿を湖面に映し出し、より美しさを際だたせているのが鏡湖池です。
面積が約6600㎡におよぶ池には葦原島(あしはらじま)や入亀島など大小の島々だけでなく諸国から集めた岩、石を配しており、背景の衣笠山を借景とした室町時代の代表的な池泉回遊式と船遊式庭園が広がっています。
この庭園は国の特別史跡、特別名勝に指定されています。それぞれが北山文化といわれる文化遺産そのものであり、金閣を演出する壮大な景観を形成しています。

◆葦原島(あしはらじま)◆

鹿苑寺境内の多くの庭園は特別史跡及び特別名勝指定地に指定されています。
葦原島はその中でも一番の面積を所有しており、情緒あふれる松が植えられています。

◆陸船(りくしゅう)の松◆

鏡湖池の北に建てられている書院の庭に、樹齢600年といわれる「陸船の松」があります。
京都三松(※)の一つに挙げられるもので、足利義満の盆栽からここに移植されたと言われ、松でありながら船の形をしています。

※他に善峰寺の游竜の松、大原宝泉院の五葉の松(近江富士)があります。

◆巌下水(がんかすい)◆

金閣から夕佳亭のある丘へと上る途中にある巌下水は義満の手洗いに使用されていた水場と伝えられており、かつては水の豊富な場所だったと考えられています。

◆銀河泉(ぎんがせん)◆

鏡湖池を背にして金閣の後を進んでいくと銀河泉があります。義満が煎じていたお茶の水に使っていたと伝えられており、現在でも清水が湧き出していて当時の面影を残しています。

◆龍門滝◆

金閣の北側には、高さおよそ2.3メートルほどある龍門滝があります。この滝を上まで登ることのできた鯉は、龍に変化し空高く飛び去っていったという中国の故事「登竜門」に因んで、滝つぼには今にも飛び出そうと躍動感あふれる鯉を表わした鯉魚石(りぎょせき)が置かれています。

◆夕佳亭(せっかてい)◆

「夕佳亭」という名前は「夕日に映える金閣が佳い」という意味に由来しているとされています。
茅(かや)ぶき屋根の数奇屋造りで、正面の「南天の床柱」、その横にある「萩の違い棚」で有名な三帖の茶室で、金閣を望むこともできます。

寛永元年(1624)、江戸時代の後水尾上皇の迎える為に、当時の住職 鳳林承章(ほうりんじょうしょう)が、金森宗和(1584~1656)に命じて創建したと伝えられています。
明治元年(1868)の火災による焼失後に建て替えられましたが、平成9年には長雨で軒を支える竹材が折れるなどの老朽化から解体修理も行われており、現在は真新しい印象を受ける茶室となっています。

◆不動堂◆

夕佳亭の東南には天正年間(1573~1592)に浮田中納言秀家が再建したとされている不動堂が佇んでいます。

岩窟の中には弘法大師の作と伝えられる本尊の石不動明王が安置され、秘仏ですが、毎年2回、節分と8月16日には開扉法要が営まれ、不動堂の扉が開かれます。

◆金閣寺垣と虎渓橋◆

金閣寺の境内の金閣から夕佳亭までいく道に、緑の苔をまとった石段があります。
竜門滝から流れる小川の上には小さな橋がかかっており、虎渓橋(こけいきょう)と呼ばれ、中国廬山(ろざん)の麓、虎渓に架かる橋を模して造られたのでは…とも伝えられています。
両側にある低い竹垣は金閣寺垣と呼ばれ、小竹垣の代表とされています。

◆安民沢(あんみんたく)と白蛇の塚◆

日照りが続いても枯れる事がない事から、別名、雨賜沢・望雲沢と呼ばれている池です。
かつては雨乞いの場所として民からの信仰を集めたそうです。

中にある小島には白蛇塚という五輪の石塔があり、足利義満にこの場所を譲った西園寺家の守り神的な存在ともされている遺跡のある場所でもあります。

◆唐門◆

金閣寺の境内に入ってすぐ屋根付きの唐門を目にする事ができます。
一般の参拝客の入口とは違い、今となっては使われておりませんが非常に深い歴史を感じることができる建物の一つです。


金閣
金閣の鳳凰
鏡湖池
陸船の松
巌下水
銀河泉
龍門滝
夕佳亭
不動堂
虎渓橋
白蛇の塚
唐門

◆金閣寺はなんで国宝じゃないの?◆

十四世紀に建立された金閣寺、十分に国宝としての資質を持っているように見えますが、違うのはなぜでしょう?
確かに、国宝となる基準の一つとして歴史的価値があげられ、数百年以上経過した重要建築物・金閣寺は国宝指定される可能性は高いですよね。
しかし、残念なことに金閣寺は戦後、放火されて一旦焼失してしまっているのです。
現在の金閣は、建設当時の図面を元に昭和に再建されたものであり、姿形はそのままでも「昭和の作品」と言えるのです。
  建築資材
ただ実際、どの国宝も数々の災害や戦乱を経ている為、造られた当時のままということはまずありえませんので、国宝に指定される際には再建されたこと自体はあまり問われないのでは?と考える方もいらっしゃるかと思います。
それでも金閣寺が国宝で無くなってしまった大きな理由の一つとして建設資材が挙げられます。
当時の部材は焼けてしまった為、建て替えの際には再建した当時の材木が使われているのです。
この為、義満が建立した当時と同じ形状をしているものの、再建した昭和の建築資材の為、国宝に指定されていないのです。

◆金閣寺放火事件とは?◆

昭和25年(1950)7月2日未明、「国宝・金閣寺焼失。放火犯人は寺の青年僧」という衝撃のニュースが世間を驚かせました。金閣寺において火事が起こり、当時国宝だった舎利殿(金閣)は全焼してしまい、創建者である足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点も灰燼に帰してしまったのです。
厳しい現場検証が行われた結果、不審火の疑いで同寺の関係者を取り調べることになります。
結果、金閣寺で修行中の青年僧侶の林承賢(当時21歳)の行方がわからない事が判明し、捜索が始まります。
  金閣寺全焼
夕刻頃、重要な捜査対象だった林は、金閣裏にある左大文字山の山中で、薬物を飲んで切腹し、うずくまっているところを発見されますが、救命処置で一命を取り留め、放火の容疑で逮捕されます。
青年僧侶である林が放火した動機はなんだったのか?
逮捕当初は「世間を騒がせたかった」と供述していた林ですが、事情聴取で呼ばれた母親は帰りに京都の西、保津峡(ほづきょう)で山陰本線の列車から飛び降り自殺してしまいます。

後々になり、林は自身が病弱である事、母から過大な期待を寄せられていた事を吐露したともされており、観光客の参観料で運営されいる金閣寺では、僧より事務方が力を持っているなどの背景も重なった事が明らかになっていきます。
金閣寺
三島由紀夫/著
新潮社

「国宝・金閣寺焼失」事件の陰に潜められた謎。ハンディを背負った若い学僧の苦悩、金閣の放つ美の魔力に魂を奪われ、ついには幻想と心中するにいたった悲劇。鬼才三島による不朽の名作です。
  京都地裁は林に対して懲役7年を言い渡しましたが、服役中に結核と重度の精神障害が進行した結果、京都刑務所から病院に身柄を移されて入院、昭和31年(1956)3月7日に京都洛南病院にて病死します。現在は母と郷里で一緒に眠っています。

その後、林の苦悩と金閣寺の裏事情を描いた文学作品が生まれ、三島由紀夫は『金閣寺』で「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して、金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析し、水上勉は『五番町夕霧楼』『金閣炎上』で「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により、美の象徴である金閣を放火した」と分析しましたが、真相は現在でも闇の中となっています。
のちの歴史小説家・司馬遼太郎が当時、産経新聞社の新聞記者としてこの事件を取材していたのも有名な話です。

◆寺院なのに金?◆

何故こんなに豪華なの?

金閣寺を「お寺」というカテゴリで理解しようとすると素朴な疑問が浮かぶと思います。
足利義満が建立した当時、金閣寺は「お寺」ではなかったとされています。
武家でありながら太政大臣にまで出世した義満は、将軍職を息子の四代義持に譲ると、西園寺家から山荘を譲り受け隠居した後、舎利殿、仏殿、書院、不動堂、泉殿などを造営しますが、義満存命中は「北山殿」と呼ばれていました。
  金閣寺
義満の死後、その子、義持は、北山殿を舎利殿だけを残して壊してしまいます。
父への恨みがそうさせたとも伝えられますが、いずれにせよ残った舎利殿を中心に義満の菩提寺としたそうです。これが寺院としての金閣寺の始まりとされています。

また、豪華絢爛な金閣寺の歴史背景として、遣唐使の廃止以来、疎遠になっていた当時の中国・明との国交回復を狙った外国客人を迎える迎賓館として造営されたという説もあります。
現在は臨済宗相国寺派・相国寺境外塔頭(子院)であり、その中の一堂宇、金閣舎利殿ですが、寺全体における金閣及びその庭園にある背景は、「黄金の国」を意識して日明外交の迎賓館としての役目があったとされ、仏像も来賓をもてなす美術装飾品という考察もあります。

◆茶所◆

500円で金箔入りのお茶とお茶菓子を愉しむことができます。
赤い布が引かれた風情ある庭の野点席、座敷、から選ぶことができ、ゆっくりとくつろげる場所になっています。

◆金閣寺限定のお守り◆

金閣寺のお土産店には京織財布やハンカチ、ポーチから花瓶や灰皿、絵はがきやキーホルダーなどの小物類などが並べられています。
人気があるのは「金閣寺限定販売」されているキティちゃんや一休さんのお守りだとか。
金閣寺限定のお守り

◆祭事案内:不動堂開扉法要(2月3日、8月16日)◆

金閣寺の不動堂に祀られている弘法大師作とされる秘仏 石像不動明王が特別開扉され、法要が行われます。
毎年2月3日(節分)と8月16日(大文字送り火)に不動明王開扉法要が営まれ、本山相国寺関係寺院の出仕により大般若経の祈祷が行われます。

お不動様の、自分の具合の悪い部分と同じところをなでることで病が平癒すると伝えられている為、年間通して大勢の人が訪れる金閣寺ですが、この期間は一層混み合うことが予想されます。首から上の病気、特に眼病に霊験あらたかといわれています。法要の後、参拝することができます。
  不動堂

【名称】
金閣寺(きんかくじ) (※鹿苑寺 ろくおんじ)
【宗派】
臨済宗 相国寺派
【開山】
夢窓疎石(むそうそせき)
【本尊】
観音菩薩
【所在地】
〒603-8361 京都府京都市北区金閣寺町1
【問い合わせ先】
075-461-0013(鹿苑寺 事務局)
【交通アクセス】
■公共交通機関等利用
京都駅から   市バス(101)(205)にて「金閣寺道」下車
四条河原町から 市バス(205)にて金閣寺道下車
四条河原町から 市バス(12)にて金閣寺前下車
三条京阪から  市バス(12)(59)にて金閣寺前下車

■自家用車等利用
最寄りのインターチェンジは名神高速道路「京都南IC」又は「京都東IC」
西大路通りを北へ、北大路通り手前を左折。
【開門時間】
9:00~17:00
年中無休
【料金】
大人・高校生400円、小・中学生300円
【ホームページ】
http://www.shokoku-ji.or.jp/kinkakuji/

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