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【三十三間堂】 世界で一番長細い木造建築

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京都有数の観光名所として知られる蓮華王院は、通称「三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)」と呼ばれます。
和様、入母屋(いりもや)造りの見事な本堂は、南北に120メートル続いており、木造建築では世界一の長さを誇ります。(地上16メートル、奥行き22メートル)

「三十三間堂」の「間」は、『柱と柱の間』の数であり、長さを表わしているわけではありません。
「一間」は日本独自の長さの単位で、メートルに換算すると約1.8メートルとなり、三十三間だと59.4メートルとなります。実際の本堂の長さは南北約120メートルの為、「間」に換算すると、「三十三間」ではなく「六十六間」になります。

堂内には、中央にある高さ3.4メートルの中尊千手観音坐像(国宝)を中心に、左右に10段50列で各500体ずつ、そして裏に1体の合計1,001体の千手観音像が並んでおり、思わず手を合わせたくなるほどの神秘的な空間となっています。左右の端には、木造風神・雷神像が配置されており、千体千手観音像の手前には木造二十八部衆立像が安置され、その全てが国宝に指定されています。さらに、豊臣秀吉の寄進による本瓦葺(ほんがわらぶき)の太閤塀や、豊臣秀頼によって建立された切妻造(きりづまづくり)、本瓦葺の南大門も重要文化財として有名です。世紀を超えて訪れる人々を魅了し続ける、まさに名刹と呼ぶにふさわしい寺院です。

◆創建の由来◆

三十三間堂は、1164年(長寛2)、後白河法皇が平清盛に命じて創建されました。造営費は平清盛が負担し、本堂に観音千体を安置したことから、「法住寺殿千体観音堂」と呼ばれることもあったそうです。当初は、五重の搭や不動堂などを従えて偉容を誇っていたと伝えられています。しかし、建長元年(1249年)の火災によって全て焼失しており、現在の本堂は文永3年(1266)に再建されたものです。
「三十三間堂」の名称は、間面記法による表記「三十三間四面」に由来するとされていますが、「33」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。
建立された平安末期から、1,000体にもおよぶ数の仏像が安置されていたかどうかは不明で、現在ある中で平安時代の作と見られるのは124体、残り800体は鎌倉時代に作られたものと推察されています。

  三十三間堂(江戸時代)
三十三間堂(江戸時代)

◆千体の観音立像から発せられる無限の慈悲◆

本堂にある1,001体の観音像は、正しくは「十一面千手千眼観世音菩薩」といいます。
本堂中央に安置された本尊「千手観音座像」は湛慶(たんけい)の大作で、鎌倉中期の代表的彫刻として有名です。
本尊の左右には、10段5列に500体ずつの千手観音立像が林立し、千体仏を構成しています。
頭部には11の顔、両脇には40本もの手を持ち、1本の手が25種類の世界で救いの働きをすることから、40を25倍して「千手」を表すとされています。
三十三間堂が建立された平安末期は「末法の世」とされ、人々を救っていた仏教が衰えると囁かれていました。そんな中、後白河法皇は、千の手によって無数の願いを叶え、救うとされる千手観音を千体も作ったことから、将来に強い不安を持った状態であると共に野心家だったと考えられています。
この1,001体の観音像は、仰いだ角度のまま、一人で自然に一つ残らず拝めるように計算されて配置されており、1,000体の中には「会いたいと願う人の顔が必ずある」という不思議な言い伝えがあります。

◆風神・雷神像◆

堂内の左右両端、ひときわ高い雲座に立つのが「風神像」と「雷神像」です。
「雷神」は、巻雲に乗り天鼓を打ち、「風神」は、肩に風袋を巻き、堂内を睨みつけています。
制作には、本堂の再建時に造像を統括した湛慶が深く関わっていたと推察されていますが、昔の日本人が持っていた自然に対する恐れや感謝の心が、風雨をつかさどり「五穀豊穣」をもたらしてくれる神々として、この二神を創造したと考えられています。
両者共に躍動的な体躯に鋭い眼光と、今にも襲い掛かってきそうな迫力があり、とても数百年前の作品とは思えない臨場感です。

江戸時代に、俵宗達や尾形光琳が三十三間堂を訪れた際、屏風にこの像をモチーフに風神雷神図を描いたのはとても有名で、鎌倉時代の代表的な木彫像という枠組みを超えて、後世のあらゆる二神(太鼓を持つ雷神と風の袋を持つ風神)の原型となった傑作です。

◆二十八部衆◆

千手観音を信仰するものを守護する護法善神のことで、東西南北・上下に各4部、北東・東南・北西・西南に各1部づつ配置されており、合計で二十八部衆となります。「観音二十八部衆」とも呼ばれており、鎌倉時代独特の無骨で力強い作風を感じることができます。形状は、天衣の女神や甲冑をつけた神将、動物や楽器を執るものなどで、檜材の寄木造りや玉眼など匠の技法が用いられた見事な彩色像です。雷神と風神を加えて三十尊とされており、どれも迫真的な表情を持ち、見る者の心を揺さぶる鎌倉彫刻の傑作とされています。なかでも婆藪仙人像(ばすせんにん)・大弁功徳天像(だいべんくどく)・摩和羅女像(まわらにょ)・迦楼羅王像(かるらおう)像などは有名で一見の価値があります。

◆湛慶◆

湛慶(たんけい)は父親の運慶(うんけい)の力動感あふれる存在性と、快慶(かいけい)の絵画的あるいは説明的ともいえる写実とを調和させた様式を確立しました。三十三間堂の本尊である千手観音の巨像は、銘文から、湛慶最晩年の82歳の時に完成したことが知られています。

 
千手観音座像
1001体の観音像
風神像
雷神像
那羅延堅固像
大弁功徳天像
※堂内は撮影禁止の為、カタログ写真より掲載。

◆1,000体の仏像、どうやって掃除しているの?◆

とても800年前のものとは思えない美しい1,000体もの仏像を見て、ふと疑問に思う人も多いのでは?

「一体どうやって掃除してるんだろう!?」

365日開いていて、毎日何千人もの人が参拝する三十三間堂には、当然ですが、相当な量のホコリが舞います。
加えて、あの無数の手はかなり掃除しにくそうです。

早速、三十三間堂に問い合わせてみました。

  文化財保存修復
事務局の方の説明によると、毎日掃除するのは、千体観音像の前に並ぶ観音二十八部衆に風神・雷神を加えた30体と、ひな壇の1~2段の足元までで、ひな段の奥まで入って掃除するのは、年に2度だそうです。
掃除の方法としては、木造の仏像に配慮し、乾いた布製のもので、優しく汚れを払うそうです。仏像は多くの手を持つだけでなく、複雑な形状の道具が装備されています。着色の剥落などが激しい仏像などは、筆でさするように軽く払うなど細心の注意が必要なのは言うまでもありません。
年に10~20体ずつは美術院国宝修理所(京都)で、専門家による修理、清掃が施され、良好な状態に戻されるそうです。つまり、約50年のサイクルで1,000体の修理が一周していく計算です。

歴史を守り、訪れる人の為に、森のように立ち並ぶ仏像を一つ一つ丁寧に管理している方々にも頭が下がる思いです。

◆豊臣秀吉との関わり◆

見落としてしまいがちなのが、境内・南の通称「太閤塀」と呼ばれる築地塀と「南大門」です。
ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた建造物として重要文化財に指定されています。
豊臣秀吉は当時、交通の要所として京都に着目していたとされます。後白河院や平清盛の栄華に加え、豊臣家の権力を誇示する為、奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営したとされています。そして、お堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いたのです。

  南大門

◆「通し矢」って何? ~日本で最も過酷な競技~◆

「通し矢(とおしや)」とは、「的に当たった矢」という意味で、お堂西縁の南端から120メートルの距離を弓で射通し、その矢数を競ったものです。
矢数を決めて、的中率を競う「百射(ひゃくい)、千射(せんい)」など種目がありました。
起源は不明とされているものの、桃山時代には、すでに行なわれたと伝えます。
江戸時代、三十三間堂の本堂西軒下(長さ約121m)は、各藩の弓術家によって矢を射る「通し矢」の舞台だったとされています。
  通し矢
特に人気を博したのは「大矢数(おおやかず)」だったと伝えられており、夕刻に始めて翌日の同刻まで24時間、一昼夜に1万本前後の矢を射続けて何本通るかを競う豪快なものでした。
慶長11年(1606)の浅岡平兵衛の試技以来、武芸者の栄誉をかけたものとなり、京都の名物行事となりました。
尾張、紀州の二大雄藩による功名争いは、さらにこの行事の人気に拍車をかけて、命懸けの記録更新競技となり、ついには死者が続出するほどの熾烈さを極めていったと伝えられています。
堂内にはその記録が多くの絵馬に残されており、和佐大八郎が13,053本中8,133本を射止めたという大記録が伝えられています。
ざっと計算してみると、この競技の人間離れした過酷さを知る事ができます。
ルールと条件を整理してみましょう。

・的までの距離:66間(約121メートル)
・的の大きさ :1丈(約3メートル)四方
・競技時間  :夕刻から翌日の夕刻まで(24時間)
(※競技時間は、仮眠や食事、トイレなどの時間を抜いて、22時間ほどで計算)
・命  中  数:約 8,000本
・総  射  数:約13,000本

命中したのは8,000本という記録でも、実際に射た数は約13,000本に上ります。

22時間×60分×60秒 / 13,000(本) = 6.092...

これを時間で割ると、蓄積していく疲労の中、1本の矢を平均して約6秒で22時間も射続けなければならないことになるのです。

また、弓で矢を射る際、ただ単に遠くに飛ばすだけであれば、弓の強さを強くして、上に向ければいいだけです。
しかし、三十三間堂には、天井がある為、上に向けて射るにも限界がある為、いっそう「強く」矢を射ないといけません。
弓道士魂―京都三十三間堂通し矢物語 平田 弘史(著)

京都三十三間堂「通し矢」に挑む弓道武士の血まみれの闘魂!江戸時代初期、京都三十三間堂を舞台に諸藩の豪傑武士たちの間で矢を射通す「通し矢」という弓の競争が行われていた。盛り上がるにつれ、諸大名の名誉と面目を賭けた命懸けの記録更新競技となり、ついには死者が続出するほどの熾烈さを極めていった。
  もちろん、審判として数える人も、観る人も大変です。
こんな類を見ない壮絶な競技が話題を呼ばないわけがなく、当時の人々がどれだけ熱狂していたかが想像できます。

現在では、1月の中旬に行われる「楊枝のお加持」大法要と同日に「三十三間堂大的全国大会」が行われます。
参加者は、弓道をたしなむ新成人の女性達で、当然ですがかつての過酷なものではありません。振袖袴姿に身を包んだ彼女達が、本堂西側の射程60mの特設射場において矢を射る場面は、しばしば全国ニュース等でも取り上げられています。

◆果し合いの地【宮本武蔵 VS 吉岡伝七郎】◆

三十三間堂の裏南側にあたる長い縁側は、吉川英治の『宮本武蔵』で、武蔵と吉岡伝七郎が決闘する場所として有名です。
実際の決闘場所は京都洛外としか伝えられていませんが、多くの人々を納得させるお話となっています。
その昔、吉岡伝七郎は、兄である吉岡清十郎が武蔵に破れた汚名を返上する為、武蔵に果し合いを申し込みます。
場所は、蓮華王院裏地・三十三間堂、時は戌の下刻(午後9時頃)と、かなり遅い時刻だったとされています。
武蔵が佐々木小次郎との決戦に遅れてきたのは有名ですが、この時も、武蔵はしっかりと約束の刻限に遅れて現れます。
静かな夜、月明かりが照らす三十三間堂の裏という、あまりに美しい情景のもとで、二人の剣豪が対峙したのです。
結果は皆さんもご存知の通りですが、『二天記』という宮本武蔵の伝記では、武蔵が伝七郎の大太刀を瞬時に奪い、一撃で打ち殺したと伝えられています。

フィクションとはいえ、長い廊下を黒豹のように疾走する武蔵と、それを地上から追う吉岡伝七郎を想像せずにはいられません。
こんな幻想的な空間を演出してしまうのも、三十三間堂の深い魅力の一つと言えるでしょう。
三十三間堂


バガボンド 井上 雄彦(著)、吉川 英治(著)

1年という時が、2人の生死を残酷に分かつ。伝七郎よ、その刀はもう俺には届かない。伝七郎は、武蔵の中で斬られていた。何度も、何度も。残酷なまでの力の差は、自分だけが痛感していた。絶望を経て、伝七郎は“前”に進む決意を固めた。

【名称】
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)
【宗派】
天台宗
【開山】
平清盛
【本尊】
千手観音像
【所在地】
〒605-0941 京都市東山区三十三間堂廻り町657
【問い合わせ先】
075-561-0467
【交通アクセス】
JR京都駅より市バス206・208系統10分
バス停「博物館三十三間堂前」下車すぐ。駐車場有り(50台)
車イス参拝可。専用トイレ、境内遊歩道あり。
【開門時間】
8:00~17:00(11月16日~3月は 9:00~16:00)
年中無休、受付終了は30分前
【料金】
一般600円・高校中学400円・子供300円(30名様以上は団体割引)
【公式ホームページ】
http://sanjusangendo.jp/index.html

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