おてらいふ辞書た行

※『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(Portal:仏教)2008年4月26日15:00(日本時間)現在での最新版を取得。



た 行

大乗仏教(だいじょうぶっきょう)

小乗仏教では修行をしたわずかな人しか救われず、一般の人々は救われないとう考えでした。
これに対して、釈迦は全ての人々を救いたかったはずである、という思想のもとに誕生したのが主に日本、中国、チベット、朝鮮半島で広まった大乗仏教です。
「乗」とは教えの事で、乗り物に例えられており、大乗とは大きな乗り物ですべての人々を救う事を目的とします。 日本に伝えられた仏教は、すべてがこの大乗仏教を基本にしています。 また、教えの違いにより「顕教(けんぎょう)」と「密教(みっきょう)」とに分かれるのも大きな特徴です。
大乗仏教の仏とは、宇宙そのものであり、宇宙の真理が仏陀(宇宙仏)という思想です。 仏陀は姿、形が無く、そのままでは教えを説く事が出来ない為、人間である釈迦に姿を変えてこの世に登場した、と考えられています。

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大日如来

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大宝(たいほう)

文武天皇の時期に使用された元号のことを言います。(701年-703年)。

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大宝律令(たいほうりつりょう)

唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたとされる8世紀初頭に日本で制定された律令です。 日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令とされ、その統治範囲は、当時の政権が支配していた領域(東北地方を除く本州、四国、九州の大部分)にほぼ一律的に及んだと伝えられています。
この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立することになりました。
そして、役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義も、この時に導入されました。
また、地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていました。

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檀家制度(だんかせいど)

一定の寺院に所属し、金品などを寄進する家のことを指します。 語源は梵語(サンスクリット語)のダーナパティ(d´napati)という言葉から生まれたものと伝えられており、「布施をする人」という意味を持ちます。 日本では鎌倉時代から使われ出した言葉ですが、広く使われ出したのは江戸時代になってからと言われています。 この頃、宗旨人別帳(宗門改人別帳)と呼ばれるものを寺院が作成し、管理する制度(いわゆる檀家制度)が徹底され、世襲的に寺院を維持する体制が構築されました。 これは、江戸幕府がキリスト教や日蓮宗不受不施派を取り締まる目的で作らせたもので、これを寺請制度と言うが、この制度は明治維新まで続きました。 その後もお寺と檀家との関係は日本人の生活に深く関わっており、現在に至っています。

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中陰供養(ちゅういんくよう)

亡くなったその日を入れた四十九日間の供養の事です。
中陰の数え方は、最初の七日目が初七日、以下、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(四十九日)と続き、この四十九日で満中陰(中陰が完了すること)を向かえることになります。
正式には七日目ごとに法要を営みますが、一般的には五十七日か、四十九日に法要を行ったり、あるいは、火葬場から戻った日に、初七日や四十九日の法要を同時に済ませることが多くなっています。
四十九日という日数は、亡くなった人が生有という新たな生を受けるまでに四十九日間かかると考え方からきています。その期間をさして、中有、中陰、とよび、ここから四十九日間の供養を中陰供養というようになったのです。

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追善供養(回向)(ついぜんくよう(えこう))

サンスクリット語で「パリナーマナ」の訳です。原義は、「進める、熟させる」 追善は追薦、追福とも呼び、死者が浄土へ無事往生し、幸せになれるよう、生存する近親者が善事を後から追い行うことを意味します。
これは大乗仏教の教えで、「他の幸福を願う事は、結果的に自分にも果報がある」とするものからきています。回向は、追善の場合、死者の冥福を祈る他に、仏の方からも参列者に功徳がもたらされるとされています。

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天平勝宝(てんぴょうしょうほう)

奈良時代、孝謙天皇の時の年号です。749年7月2日~757年8月18日。

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唐(とう)

李淵が隋を滅ぼして建国した中国の王朝(618年 - 907年)のことです。
「唐」の字義は「ひろい、おおきい」をさします。最盛期(7世紀頃)は中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化等の面で、多大な影響を与えました。

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東国(とうごく)

古代日本においては、「日本」は関東から九州北部までの東西の範囲を指していたとされています。 この為、現在の東北地方及び九州地方南部は未知の地域であり、当時の観念においては「日本」としての領域には含まれていなかったと考えられています。
「あづま」とは、「日本」の東側を指し、特にその中心であった奈良盆地周辺より東にある地域を漠然と指した言葉であったと推測されています。
しかし、元々「あづま」が東の方角の意味で用いられていたものなのか、別の「あづま」と呼ばれる地名もしくは地域が存在しておりそれが大和の東方にあった為かについては明らかではありません。

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道昭(どうしょう)

飛鳥(あすか)時代の法相(ほつそう)宗の僧であり、遺命により日本最初の火葬に付された人物です。 入唐して玄奘(げんじよう)に学んだ後、帰国して元興寺に禅院を建立し、法相宗を初めて日本の人々へ伝えました。

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東大寺(とうだいじ)

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杜子春(とししゅん)

芥川龍之介が1920年(大正9年)に雑誌「赤い鳥」に発表した子供向けの短編小説です。
その主人公の名前でもあり、 原作は中国の古典、鄭還古の杜子春伝とされています。

あらすじ
ある春の日暮れ、洛陽の西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいました。
彼は元々金持の息子でしたが、財産を使いすぎた為に、今は惨めな生活になっていました。
杜子春はその門の下で、片眼すがめの老人に出会い、不思議な力によって再び大金持ちにしてもらいます。
しかし、杜子春は三年後また財産を使い果たし一文無しになってしまうのです。
杜子春はまた西門の下で老人に出会い、再び不思議な力で大金持ちにしてもらい、同じことを繰り返してしまいます。
三度目、西門の下に来た杜子春は変わり果てていました。
大金持ちになった時には友達も大勢よってきますが、貧乏になった途端、皆が離れていくのです。
杜子春は人間という生き物自体に愛想を尽かしていたのです。
杜子春は老人が仙人であることに気がついて、仙術を教えてほしいと懇願します。
そこで老人は自分が鉄冠子(三国志演義などに登場する左慈の号)という仙人であることを明かし、杜子春を自分の住む峨眉山へ連れ帰ります。
峨眉山で杜子春は仙術の試練を受け続けます。
鉄冠子が帰ってくるまで口をきいてはならないので、杜子春はじっと試練に耐え続けます。
しかし、親が畜生道で苦しんでいるのを目の当たりにしてつい「お母さん」と一声、叫んでしまうのです。
すると、あっという間に杜子春は現実に戻されてしまいます。
洛陽の門の下、春の日暮れ、すべては仙人が見せていた幻だったのです。
仙人は杜子春に泰山の麓に一軒の家と畑を与え、これからは人間らしい暮らしをするようにと杜子春に説きます。

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