おてらいふ辞書さ行

※『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(Portal:仏教)2008年4月26日15:00(日本時間)現在での最新版を取得。



さ 行

最澄(さいちょう)

神護景雲元年8月18日(767年9月19日)~弘仁13年6月4日(822年6月26日)
平安時代の僧侶で、天台宗を開いた事で有名です。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)と言います。
空海(弘法大師)とともに、旧来のいわゆる奈良仏教から新しい平安仏教へと日本仏教が変わる時期の中心人物です。

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防人(さきもり)

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サンスクリット

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地蔵十三経

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地蔵菩薩

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シッダッタ

「釈迦」の本名です。「シッダッタ」とは古代インドパーリ語で「目的を成就した者」という意味を持ち、姓はゴータマ、名はシッダッタだったと伝えられています。

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四天王寺(してんのうじ)

聖徳太子が建立した七大寺の一つと伝えられている大阪市天王寺区にある寺院です。
山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音(ぐぜかんのん)です。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されています。
天台宗に属していましたが、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の「日本仏教の最初の寺」として、全仏教的な立場から、1946年に和宗総本山として独立宣言を出しています。
数多くの重要文化財(国指定)、登録有形文化財、国宝の存在している歴史あるお寺です。

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持統天皇(じとうてんのう)

大化元年(645年)~大宝2年12月22日(703年1月13日)。
日本の第41代天皇で女帝です。(在位:686年~697年)。

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シャカ(釈迦)王国

仏教の文献において、当時インドの政治的状勢では「十六大国」が語られていますが、ゴータマ一族の収めるシャカ(釈迦)王国がこれに含まれてはいないことから、小国であったと予想されています。
また、釈尊出家の前後には西隣の強国コーサラ(拘薩羅)の保護のもとに置かれ、悲惨な滅亡の道を歩んだと伝えられています。
「十六大国」に含まれず、王権が完全な形で成立していない小集団においては、当時サンガと呼ばれた一種の共和制を以て一族の政治や儀式を行っていたと考えられます。
つまり王と呼べる存在はあっても、実際は祭儀も司る釈迦族の長老のような役割であったと推察されています。

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釈迦如来

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出家(しゅっけ)

世俗を離れ、家庭や生活を全て捨てて、仏門に入ることを指し、在家(ざいけ)と対比して使われます。
仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、受戒(じゅかい)し、沙弥・沙弥尼に対して、また、具足戒を受けた比丘(びく:男性僧)・比丘尼(びくに:女性僧)を呼ぶ場合にも使います。 (剃髪した僧侶が多いとされますが、実際、剃髪せず、ごく一般的な髪型をしている者も数多く存在します。)
古来インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行に励みました。 有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、あの「釈迦」もその沙門の1人だったと伝えられており、仏教における出家の伝統はこれに由来するとされています。
古来の仏教では、出家者は在家者を教え導き、在家者は出家者を経済的に資助する者とされ、出家の精神的優位が説かれていました。その後、紀元前1世紀頃に始まった大乗仏教においては、菩薩(ぼさつ)による衆生済度(しゅじょうさいど)の観点から、在家の意義も積極的に認められるようになり現在に至っています。

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焼香(しょうこう)

香をたくこと。特に、仏や死者に対して香をたいて拝むことを指します。
仏式葬儀での焼香は、その香気によって霊前を清め、霊に手向けるものです。
抹香をたく回数は宗派によって違いがありますが、一般的に焼香、従香の2回です。仏・法・僧にささげると言う意味で3回とする宗派もありますが、回数はそれほどこだわる必要はありません。

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小乗仏教(しょうじょうぶっきょう)

小乗仏教では、悟りを開いた後の釈迦を崇拝対象としています。「乗」とは教えの事で、乗り物に例えられており、小乗とは小さな乗り物を指します。 これは、出家して厳しい修行を積んだ僧侶のみが悟りを開くことができて救われるという考え方に基づいています。 従って、修行をしたわずかな人だけが救われ、一般の人々は救われないという事になります。釈迦の没後、主にスリランカ、タイ、カンボジア、ラオス、ビルマなどで長い期間この思想が定着していました。
小乗仏教(小さな乗り物)という名称は、大乗仏教と区別する為に使われる言葉で、近代では「上座部仏教(じょうざぶ)」と呼ばれるようになりました。 1950年6月、日本の伝統仏教各派も加盟する世界仏教徒会議(WFB)第一回世界大会がコロンボで開催された際、小乗仏教という呼称は使わないことが決議されています。

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聖徳太子(しょうとくたいし)

推古天皇が即位した593年、政治の補佐役だったと伝えられる人物です。
仏教を保護したことから、平安時代には聖徳太子自身が信仰の対象とされ、多くの太子像が作られました。
幼少時から聡明で仏法を尊んだとされ、豊聡耳(とよとみみ)など様々な逸話、伝説が残されています。

・豊聡耳(とよとみみ)

皇子は民の請願を聞く際、我先にと口を開いた請願者10人の意見を漏らさず理解し、それぞれに的確な答えを返したと伝えられています。
この皇子の聡明さを讃えて、以降は豊聡耳(とよとみみ)とも呼ばれるようになったと伝えられています。

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聖武天皇(しょうむてんのう)

724年から749年まで即位していた天皇です。
仏教政策に非常に力を注ぎ、日本全国に国分寺、国分尼寺を建立していきました。
さらに745年に東大寺の造営を命じるなどして、仏教による乱れた国土の平穏を願ったと伝えられています。
また、東大寺の大仏開眼も有名です。
現在は、正倉院に聖武天皇の遺品が数多く残されています。

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声明(しょうみょう)

日本の伝統音楽の一つで、仏典に節をつけたもので儀礼に用いられる宗教音楽です。

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白木位牌(しらきいはい)

お葬式の時に用いる白木の位牌です。死者の戒名・俗名(生前の姓名)・死亡年月日・行年(死亡時の数え年)が書かれている、または、書かれた紙が貼られていることが一般的です。
亡くなってから忌明け(四十九日、地方によっては三十五日)の法事まで新仏の祭壇に祀られます。本位牌ができた後、寺院へ納められ供養します。

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推古天皇(すいこてんのう)

欽明天皇15年(554年)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)。
第33代天皇であり、日本初の女帝と伝えられています。(在位:崇峻天皇5年12月8日(592年)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日))。
名は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。

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菅原道真(すがわら の みちざね)

承和12年6月25日(845年8月1日)~延喜3年2月25日(903年3月31日)。
平安時代の学者で、非常に優れた漢詩人であり、政治家でもありました。
33歳の時に文章博士に任じられ、宇多天皇に見出されたことで、右大臣にまで昇進しましたが、左大臣藤原時平により、大宰府へ左遷されてしまい、そこで没します。
その後、朝廷に祟りをなす天神として祀られることになりました。現在は学問の神として親しまれています。

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勢至菩薩

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葬送(そうそう)

語源としては、遺体を葬る為に墓所まで送ること。
一般的な現代の仏式葬儀では、葬儀を終え、自宅または葬儀会場から火葬場へ送ることを指しています。(「出棺」とも呼ばれる。)
葬儀に参列した人、近所の人をはじめ故人にゆかりのある人が、霊柩車に手を合わせて見送りますが、故人に近い人は、霊柩車とともにマイカーや小型バスなどで火葬場まで行き、最後のお別れをします。 つまり現代では、「葬送」は、出棺から火葬場で火を入れるまで、お墓へ送ることは「納骨」と呼ばれることが多いようです。

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蘇我一族(そがいちぞく)

古墳時代から飛鳥時代(6世紀~7世紀前半)に勢力を持っていた有力豪族です。
後代の日本文化に計り知れない影響を与えた仏教の導入に、蘇我氏は密接に関わっていました。
建築・美術そして儀式など、仏教文化を集大成したお手本ともいえる大寺院の数々は、蘇我氏の手で作られたとされています。
外国の最新技術・知識を総動員して作り上げられた飛鳥寺は、蘇我氏と朝鮮半島との強い繋がりとを示しています。

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