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戒壇院
仏教用語で、戒律を授ける(授戒)ための場所を指します。 授戒を受けることで出家者が正式な僧尼として認められることができます。 この戒律を受けるための「結界」が常に整った場所を戒壇と呼びます。
戒律(具足戒)
戒律(かいりつ)とは、仏教において守らなければならない、道徳規範や規則の事を指します。
戒律の戒とは、サンスクリット語でSila、即ち自分を律する内面的な道徳規範であり、五戒、八齋戒、菩薩戒、十重禁戒、三聚浄戒などや、男性僧は250戒、女性僧は350戒の小乗戒があります。戒を守る行為(持戒)は、六波羅蜜の一つとされています。
また、律とは、サンスクリット語でVinaya、即ち教団で守るべき集団規則であり、戒を破っても罰は受けないが、律を破ると罪の内容によって、様々な罰を受ける必要があります。
加持祈祷
病気などの災難を祓うための祈祷のことを言います。
貴族階級を対象とした現世利益的な平安朝の密教的仏教に対して、批判的なニュアンスにおいて用いられる事があります。
鴨長明(かもの ちょうめい)
1155年~1216年 平安時代後期から鎌倉時代にかけての歌人・随筆家です。
「方丈記」は日本三大随筆の一つとして有名で、その他作品に「無名抄」「発心集」などがあります。
ガヤー
ボードガヤー(仏陀伽邪)は、ゴータマ・ブッダ(如来)の成道(悟り)の地で、八大聖地の1つです。(仏教の八大聖地は、仏教における重要な8つの聖地の総称。その全てがゴータマ・ブッダの人生に関わる遺跡です。)
仏教では最高の聖地とされ、ヒンドゥー教における聖地でもあります。
インド東部、ビハール州、ネーランジャヤー(尼蓮禅)河のほとりにあり、ブッダガヤには、中心にあるマハーボーディー寺(大菩薩寺)と、そのまわりにある各国各宗派の寺院(例 中国寺、日本寺、ネパール寺など)があります。
マハーボーディー寺の中には、その本堂である高さ52mの大塔と、ゴータマ・ブッダが成道したときに座っていた金剛宝座と、成道したときにその陰にいたゴータマ・ブッダの菩提樹、沐浴の蓮池があります。
漢詩(かんし)
中国(漢の時代)で、民の間から生まれた一句(一行)四言(文字)、五言、七言が代表的な漢字の詩のことを言います。
三国時代の魏の武帝「曹操」が漢詩を国家芸術品として確立されました。
以下、有名な漢詩の一例として、唐時代の李白による漢詩です。
・静夜思(静かな夜に思う)
床前明月光(寝台の前に明るい月の光が差し込んでいる)
疑是地上霜(地上の霜と見まがうばかりだ)
挙頭望明月(仰ぎて明月を見)
低頭思故郷(俯いてふるさとに思いをはせる)
古体詩と近体詩があり、古体詩は古い形式のもので明確な型がなく句法や韻律は自由です。
近体詩は唐以後の新しいもので、平仄、脚韻が定まっていて、五言絶句・六言絶句・七言絶句・五言律詩・七言律詩・五言排律・七言排律に分類されます。
日本でも「懐風藻」という日本初の漢詩集が751年に作られました。
観世音菩薩
還骨勤行(かんこつごんぎょう)
遺骨を迎える葬儀を締めくくる儀式で、遺族、会葬者が後飾りの祭壇の前に集まり、僧侶にお経をあげてもらいます。
き
魏志倭人伝
中国の正史『三国志』のうちの『魏書』(全30巻)の最後に書かれている烏丸・鮮卑・東夷伝の三伝中の倭人の条の略称で、日本において一般に知られる通称です。 正式名は「『三国志』魏書巻三十、烏丸鮮卑東夷伝倭人条」、著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年~290年間)に書かれたとされています。
く
空海(くうかい)
宝亀5年6月15日(774年7月27日)~承和2年3月21日(835年4月22日)
「弘法大師(こうぼうだいし)」の諡号(醍醐天皇、921年)でも知られる日本真言宗の開祖として有名です。俗名は佐伯 真魚(さえき の まお、佐伯 眞魚)と言われています。
最澄(伝教大師)とともに、旧来のいわゆる奈良仏教から新しい平安仏教へと日本仏教が変わる時期の中心人物であり、中国から真言密教を持ち帰りました。
書道家としても能筆で知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆の一人として数えられています。
苦行(くぎょう・タパス)
苦行(tapas)は「熱」を意味します。
古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』では宇宙創造にかかわる「熱力」という意味で用いられていました。
後に断食に代表される肉体を苦しめる修行によって、この神秘的な熱力が獲得されるとみなされ、そのような行もtapasと呼ばれるようになりました。
これを得れば超人的な能力が実現できるとして、さまざまな苦行、難行が行われたとされています。
ブッダいた頃は、都市の近郊に苦行者の集まる苦行林が形成されていたそうで、外国から訪れた人々を非常に驚かせていたと伝えられています。
け
袈裟(けさ)
仏教の僧侶が身につける布状の衣装のことです。
梵語の「混濁色」を意味するカシャーヤ(Kasaya)を音訳したものとされています。
起源は、インドの仏教僧侶が身にまとっていた布とされています。
仏教では本来、出家僧侶は財産になるような私有物を持つことを禁じられており、衣服もその例外ではありませんでした。
その為、僧侶は使い道が無くなったぼろ布を拾い集め綴り合せて身を覆う布を作ったと伝えられています。
草木や金属のサビを使って染め直され、黄土色や青黒色をしていたのは、在家者(白い布をまとっていた)と区別する為だったそうです。
種類は、作業着にあたる安陀会(あんだえ)、普段着にあたる鬱多羅僧(うったらそう)、儀式・訪問着にあたる僧伽梨(そうぎゃり)の三枚があります。
これに食事や托鉢に使う持鉢をあわせて、三衣一鉢(さんねいっぱつ)と呼び、僧侶の必需品とされていました。
その後、仏教がより寒冷な地方に伝播するにつれて、下衣が着られるようになりました。
中国に伝わる頃には本来の用途を失い、僧侶であることを表す装飾的な衣装となっていきます。
日本では、鮮やかな色や金襴の布地が用いられるようになり、その組み合わせによって僧侶の位階や特権を表すものとなりました。
特に江戸時代までは「紫衣(しえ)」、「紫袈裟」は天皇の勅許が必要だったそうです。
なお、一般の僧は黒い衣であったことから「黒衣」(こくえ)と称された。
1872年の「肉食妻帯蓄髪」を容認した太政完布告策133号などから、僧侶も法務以外の時は一般の人と同じ服装をするようになっていきます。
こ
高野山(こうやさん)
和歌山県にある標高約1,000メートル前後の山々の総称で、山の上の盆地に、壇上伽藍と称する聖地があり、そこにはさまざまなお堂や塔が立ち並び、仏像や曼陀羅が参拝者を迎えます。
平安時代の弘仁10年(819年)頃、弘法大師によって開かれた、真言密教の修行道場であり、全国に広がる高野山真言宗の総本山です。
比叡山と並ぶ日本仏教における聖地であり、総本山金剛峯寺があることでも有名です。
山内の寺院の数はおよそ117ヶ寺におよび、その多くが宿坊を兼ねています。杉の樹の茂る奥の院には、太閤秀吉から太平洋戦争の英霊まで、さまざまな人々のお墓が立ち並んでいます。
平成16年(2004年)7月、『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録されています。
ゴータマ一族(ごーたまいちぞく)
仏教の文献において、当時インドの政治的状勢では「十六大国」が語られていますが、ゴータマ一族の収めるシャカ(釈迦)王国がこれに含まれてはいないことから、小国であったと予想されています。
「十六大国」に含まれず、王権が完全な形で成立していない小集団においては、当時サンガと呼ばれた一種の共和制を以て一族の政治や儀式を行っていたと考えられます。
つまり王と呼ばれる者はいても、実際は祭儀も司る釈迦族の長老のような役割であったと推察されています。
虚空蔵菩薩
国分寺(こくぶんじ)
聖武天皇が741年に乱れた国の平安を願って各国に国分尼寺(こくぶんにじ、こくぶにじ)とともに建立を命じた寺院です。
正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と呼ばれていました。
各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれ、大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられていたと伝えられています。
律令体制(中央集権的な国家)が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れていきました。
中世以後、国分寺は、当初の国分寺とは異なる宗派や特色の寺院として形を変えながらも存置し続けたことが明らかになっています。
中には再興されるなどして、現在まで維持しているところもあり、現在でも国分寺の所在地であったことにちなむ有名な自治体名として、東京都の国分寺市などがあります。
御神体(ごしんたい)
神の体を指すが、御神木、夫婦岩や注連縄、横綱など一般的には神の依り代(宿るもの)を指します。 日本に於いてその種類は山や川、木石など自然の造形物から、鏡、刀、曲玉など人工の造形物まで千差万別とも言えます。 自然の造形物で有名な物としては、富士山などが上げられます。
金剛峰寺(こんごうぶ‐じ)
天承元年(1131年)10月17日には覺鑁(かくばん)上人が鳥羽上皇の勅許を得て小伝法院を建立されました。
その後、文禄2年(1593年)には豊臣秀吉公が亡き母堂の菩提を弔う目的で、木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)に命じて建立されました。
当時は、秀吉公の母堂の剃髪が納められた事から、剃髪寺と名付けられたそうです。
後にその名を青厳寺(せいがんじ)と変えて、応其上人や法印御房の住坊となり栄華を誇りましたが、再三の火災によって焼失しており、現在の本殿は文久3年(1863年)に再建されたものです。
「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。
東西30間(約60メートル)、南北約70メートルの主殿(重要文化財)をはじめ、座主居間、奥殿、別殿、新別殿、書院、新書院、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、阿字観道場、茶室等の建物を備えています。
また、寺内(じない)には狩野派の襖絵や石庭などが設けられ、境内総坪数 48,295坪の広大さと格式の高い優美さを有しています。
